奈良大に行く。3週間ぶり。終わって図書館へ。じっくり本を読む。邪魔がない。佐治さんと佐藤勝彦さんの対談の本を読み終える。「時間」に関しての話し、深い意味が分からない。虚数…すっかり忘れているというか、意味が分からないのは悲しい。
インドにいたころ、アウトカーストの街をぶらついた。そこの校長が行って来いと言われた。タイアの再生をなりわいにしている部落だった。すり減ったタイアにゴムを張って再生するのだ。呼び止められた。夫が交通事故で亡くなった。そのお通夜だった。見も知らない私たちに声をかけられた。部屋に通された。
その時の印象、私なんかに声をかける。その見境ないつながりを日本にない暖かさのように思った。お参りをした。盛りだくさんの食べ物を出された。食べていけと言う。熱いものを感じた。香典を供えた。
その体験と通じる夢をみた。貧しさと言う言葉、さなかの人はそうは思ってないかもしれない。昨日読んだ本、『看取りとつながり』大井玄さんの本。・・・。「認知症」ということば、認知症でない人の言葉だろう。言葉ことに病名は、健康な人からみて、区別する言葉になっている。本人は・・・おもってない。
言葉と言うのは区別するときに有効に働く。病名など…、それは一方で本人から引き離す働きがある。引き離すのではない感覚の言葉は作れないか。言葉ってたえず分離させる。